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*考察1/ メイク・オフ


 鏡を見ながら化粧を落とす。化粧は顔の上に書かれたものだから、それが自分の顔なら、鏡を見なければ見ることはできない。自分が見るよりも人が見る時間の方が長い自分の顔を、そこに見つける。
 クレンジングオイルを手にとって、温めてから顔に伸ばす。ポイントメイクを落とし、ふき取って、マスカラが残っていたら綿棒で丁寧に取り、オイルを換え、ベースメイクを落とす。洗顔。そこにあらわれた私。は、誰?
 この感覚は何だろう?
 道端で転んだとき、友達と一緒ならそんなに恥ずかしくない。「やだまた転んじゃった、あたしほんとよく転ぶんだよねー」とか、そうやって友達と話していると、人の目も気にならない。そういった経験はいろんな人が持っている、はずだ。
 だからもしかすると、一人なのがいけないのかもしれない、と私は思う。家族でも、彼氏でも、誰かいたら、こんな感覚を味わうことはないのかもしれない。それは夢の中で、たったひとり、裸で歩いている風景にも似ていて、恥ずかしいような、おかしいような、心細いような、それでいてまったく無感動な、あるひとつの状態なのだ。
 ここには人の目はない。あるのは自分の目だけだ。でもそれが怖いと感じることがある。鏡を伏せ目を閉じても、自分の目からは、逃げられないからだ。そんなあるひとつの状態が、もうずっと私にはある。


 
*主題1のフーガ/ 人喰虎オルガン(2)


 思い立って、人喰虎オルガンの写真を探した。夢を見た日からしばらくはぜんぜん思い出せなかったのだけれど、今度は不思議とすぐに思い出した。ずいぶん前に買った英文学関係の専門書で、詩人キーツに関係するページに載っていた。私の記憶では、虎の身体の一部が蓋になっていて、そこを開けると鍵盤があらわれるのだったが、そこには「犠牲者の悲鳴と虎の唸り声の出る〈人喰虎オルガン〉」と形容してあって、察するに鋼鉄の処女とか、あのあたりの仲間のようだった。たぶん、蓋を開けるとその中は素敵な拷問仕様になっていて、つまり、私は勘違いをしていたのだ。とにかく、昼の日中に見たいような文章ではなかった。昼食はたらこスパゲッティにしようと思っていたけれど、とりやめて、ふつうのペペロンチーノにしよう。口の中でたらこがぷちぷちするようでは困る。



「議員どもに一泡ふかせてやるぞ」王は叫んだ。
「反逆者どもの名には、しるしをつけ、おれに逆らう議員めらをたじろがせ、やつらが恥じ入るまで、王の情炎を消そうとするとどうなるかを思い知らせてやろう。
牧師たちまでが悪事に加担するとは! やつらまでもが、この手の込んだ計略に加わっているとは! おれは王ではないか。王冠をかぶっているのか? エルフィナン王よ、さあ行って首をつれ、さもなきゃ溺死しろ」
『鈴つき帽子』 キーツ



*考察2/ メイキャップ


 春! 朝!
 一杯のグレープフルーツ・ジュースが脳を目覚めさせ肌の調子を整えると信じて、私は今朝も冷蔵庫を開ける。日常のもろもろ。雑多な手続き。ヴァニティケースを引き寄せる。うん、化粧ののりがいいと気分がいいな。
 下地―リキッド―パウダー、何層かで組み立てられた私の皮膚が血色をもって色づく。
 ファンデーションがよれないように、手にパフを当てて頬の上に手首をつく。手を固定すると眉が描きやすいのだ。毎日の手続きで、手だけが動いている。何も考えたりはしない。ただ、夢の残りがうっすらとやってくるにまかせる。彼らはほんの数秒、私の思考に留まっているだけで、すぐに消えていく。私もそれを追ったりしない。ふだんはそうだ。ただ今朝は違った。夢は相変わらず、薄い布の切れ端みたいに頼りなかったが、少しずつ寄り集まってくるようだった。ゆっくりと渦巻く銀河が星を吸い寄せるように、夢は集まってきて私に解釈を迫った。私はそれらを何度か反復して、忘れないようにしまっておくことにした。いつか何かの方法で理解し、解釈できるように。…
 

ライターの火でビューラーを暖め、即席のホットカーラーを作りながら、つらつら考えた。この風景はあの人喰虎オルガンにすこし似ている。





     2005/04/03 Vanity. #4